感想などない。
あれなら、去年の再放送でもやればよかったんだ。
"フジテレビ"というソフト工場がここまで落ちぶれたということを如実にあらわしたというただ一点においてのみ、今回の「27時間テレビ」は意味があったのかもしれない。
あとは、アップフロントが懐を潤したか…。
恐らく局には、「感動した」「涙した」というような感想がたくさん届けられたことだろう。
それで満足か・・・。アハハ。
Cチャンネルがやるようなことを恥ずかしげもなく堂々とやってしまったことに、悔いや後ろめたさはないのか。
もうこーなりゃ、日テレと一緒に同じ日にやればいいのだ。武道館からやればいいのだ。
連続生放送ということの誇りや強みを一切感じさせない目を覆うばかりのVTR企画の濫用。
『音楽寅さん』にいたっては完パケの全編録画とは・・・。
要するに、こうでもしないと番組を成り立たせる力がフジテレビというソフトメーカーには既にないということの証左である。
このことを思えば、ただひたすらトークと中継だけでつないだ初期の『夢列島』や中学入試で20数時間をひっぱった『平成教育テレビ』の凄さ、偉大さを痛切に感じるのである。
そしてそこに一貫してあったのは、「笑いで人を楽しませる」「お茶の間に笑いを提供する」ということである。
「感動」や「いいこと」、「チャリティー」などクソ喰らえ、我々は笑わせてなんぼ、日テレには絶対にできない、フジだからできる24時間テレビをやろうという強い意思と気概を持った職人たちによってつくられた番組があったのだ。
そして、それに見事にこたえることができた腕のある演者がいた。
日テレのまんまパクリでは、情けないとは思わないのか。モー娘は去年、一昨年の日テレのメーンパーソナリティーだぞ。それをそのまま起用してしまうことになんの躊躇いもなかったのか。
そもそもあの番組でのモー娘の存在意義はなんだったのだ。ただ鶴折っただけか。
総合司会のみの氏がいったい何をしてくれたというのだ。
間の悪い中継のサバキ。一人はしゃぐ醜さ。万羽鶴を数えるのが野鳥の会だということを言い当てて喜んでる姿は見るに耐えなかった。あれは、「笑い」で言えば、オチを先に言ってしまう大失態である。(実際、スタジオには「あーこのオヤジ、言っちゃったよ」という空気が流れていたように思う)
また、エンディングで"熊先生"が教え子に黒帯を贈る場面でも、なぜか彼は熊先生から帯を奪い取り、自らの手で渡してしまうのである。あそこは、先生が直接気持ちを込めて、教え子に手渡すべきであったろう。彼の本性、傲慢さが滲み出るシーンであった。
とにかく、彼が司会でよかったと思えるところなどどこにもなかったのだ。
なぜ、彼が司会でなくてはいけなかったのか理解に苦しむ。特に彼向きの企画があったとも思えない。いや、はっきり言おう、居ないほうがマシだった。無難なところで控えめな局アナのほうが数倍落ち着いて見られたはずだ。
フジテレビさん、もうやめにしましょう。
あなたたちにはもう、『27時間テレビ』なるものを成り立たせる力はないのです。
もうなかったことにしましょう。ワタシはあの面白かった頃の「夢列島」、放送翌日、必ず学校や職場で話題になった頃の「夢列島」を胸に抱き、大切な思い出としていきたいと思います。(あ、でも今年もある1シーンだけはかなり話題になったか・・・この件に関してはギャーギャー騒ぐ方がどうかしていると思うので、あえて触れない)
最後に、これだけは書き記しておかねばなるまい。
ちょうど10年前、1993年8月放送の日本テレビ『24時間テレビ16 愛の歌声は地球を救う』。テーマは「出会い」。
日テレがタイトルを初めて『愛の歌声−』としたのは前年の92年。そして、そのタイトル2年目のテーマが「出会い」だったことになる。
恥を知れ、フジテレビ。
追伸、ことしも一応言っておこうか・・・。
「夢列島」の司会はあの人以外にいない。中継のさばき方もあの人の右に出る者はいない。タレントはもちろん、一般参加者とのやりとりもあの人にはかなわない。あえて名前は出しません。あの人をメインとしてブッキングできないのなら、もう27時間テレビなどやめてしまうべきなのです。そして、今回のような感動路線に走ったことを第1回の司会者であるあの人がもっとも嘆いておられました。
平成15年7月5日