2001年3月15日(木)【続・金八先生】
さて、今日は前述の「金八先生」をぼくが何故嫌いかについて述べさせていただきます。
ところで、皆さんは、今人気の「HERO」を実際にこんな検事がいてくれたら、いて欲しいというふうに願いながらご覧になってますか? まさか、そんなことないですよね。ああいう恰好いい正義のヒーローが悪を許さないということにある種の爽快感や気持ちよさを感じて、見ていらっしゃるのではないかと思います。ならば、「金八先生」についてもそういう見方であればなんら問題はないでしょう。
ところが、多くの視聴者が、特に中学生ぐらいの子を持つ親を中心に、実際に「金八先生」という先生の存在を望みながら見ているのではないでしょうか? 「あんな先生がいたら、もっと学校は良くなるのに」というような声をぼくも聞いたことがあります。
しかし、あれはドラマです。けっして現実ではありません。都合よくできているのです。実際の教育現場はもっと複雑で、多くの病みを抱えています。それを解決するのは「金八先生」のように一朝一夕にはいかないのです。にもかかわらず、「金八先生」という幻想を抱かされた人たちは、「どうして、わが子の担任はあのようにできないのか」という理不尽な要求を持つようになってしまうのではないでしょうか。
まあ、これだけであれば、これは視る側の責任で、作る側には罪はないのかもしれません。しかし、この番組には、あきらかに「この番組を手本に」、「この番組を参考に」という意思が感じ取れます。それがぼくは不快でならないのです。テレビドラマを作る人間がやなねばならぬことは、そんな偽善の押し付けではないはずです。
実を言うと、ぼくもパート3までの「金八先生」は好きでした。パート3での終盤、山田なんとかという不良がかった父子家庭の少女の父親が突然死んでしまい、金八先生を中心に3Bの生徒が葬式を挙げるのに尽力するという話はとても感動的でした。そして、その少女が、その葬式をきっかけにして不登校の少女とともに登校するというシーンはなんともいいものでした。
しかしながら、最近のシリーズは、どうも「正義の看板」を掲げ、身勝手な教育指針番組になっているような気がします。ドラマという架空のものでしかないにも関わらず・・・。
こんな偽善にぼくは、なんとも、やり切れないものを感じて仕方がありません。批判を覚悟して言えば、この番組は「しりとり侍」よりも「ネプ投げ」よりも有害な番組ではないでしょうか。なぜなら、「しりとり侍」などは子どもへの悪影響を憂慮したものですが、「金八先生」はれっきとした大人に悪影響を与える番組だからです。